研究ノート(大学教員の徒然)

なかたにじゅんいちの個人ブログです。

マーケティング研究ブログするつもりが、最近は専ら戯言の類(主にアニメネタ)ばかりです。本当にスミマセン。
※本ブログの内容は個人的見解であり、当然ながら所属組織及び企業の意見を代弁するものではありません。

麻雀が好きだ。

社会人になりしばらくは年2回程度であったが、この1年、気の合う会社の仲間と週末、月2〜3回打つようになりました。

勝ったり、負けたりするわけです。
麻雀をしていると、「運やツキ」の存在を感じざるを得ません。


配牌からもうイーシャンテン・
リーチをかければツモれる。
何を切っても振り込む気がしない(実際に振り込まない)。
裏ドラが面白いように乗る。


つまり、全く負ける気がしない、実際に負けない日もあれば、


配牌時に全くあがれる気配が無い。
リーチをかけてもタッチの差で他家にあがられる。
ベタ降りしたいのに、はじめから、安牌がない。
他家ツモ上がりの時に限って割れている。


とまぁ、本当に苦しい日もあるわけです。


なぜなのでしょう?
何とかならないものなのでしょうか?


決して苦しい日に、間違った打ち方をしている訳ではないはずなのです。
負ける気がしない日も、苦しい日も、その場での最善を尽くしているのです。


何かこれには法則があるように思えてなりません。

でも、誰もその法則を確立できない。
だから、占いやら、運勢やらが星の数ほど存在するのも理解できます。


苦しければ、次は良くなるかも知れないと想い、
良ければ、次も良いはずだと思う。


ギャンブルとはそういうもので、ゆえに、関わり方間違えてはいけないのです。気をつけないと・・・




北京オリンピックも終盤戦。
この夏、連日テレビはオリンピック一色です。
事前の予想を反して、日本は苦戦していますね。

小生は、専ら、NHK総合か、NHK衛星第一でしかオリンピックを見ていません。
何とも、民放のバカ騒ぎオリンピック放送を受け付けないからです。

それはさておき、
ふと、

オリンピックって何のための開催されているのか?


と考えてしまいます。

昔は、世界一を決める大会、平和の祭典としての意義があったのでしょうが、いまやその意義も薄れている感、否めません。

何のため、誰のためにオリンピックは開催されるのでしょうか?

人類の発展のため?平和のため?政治のため?
選手のため?国のため?企業のため?観戦する人々のため?

答えはひとつではないのでしょうから、
考えだしたらキリがありませんが、自分なりに答えを出してみました。

まず第一に、
どうも、企業のためにオリンピックがあるように感じてなりません。
近年は、オリンピック自体が巨大ビジネスになっています。

オリンピックを通じて、企業が大きな利益を得ているのが現状ではないでしょうか?

そういう意味では、
最大の開催目的は、「関わる企業の利益のため」と言えそうです。

儲かる企業がある限り、オリンピックは続くのでしょう。
継続させる理由こそが、オリンピックの開催理由ではないでしょうか?

二番目に、
日本選手が活躍すると、純粋に嬉しく思います。

多くの人が、そうだと思います。
それは、自分自身が日本人だからだと思うのです。

そういう意味では、オリンピックはナショナリズムの祭典ではないでしょうか?
となると、オリンピックは政治の為でしょう。

オリンピック出場は、なんだかんだいっても、やはり選手の努力の結晶。
メダルを獲得した選手の、感極まった喜びの感情、負けた選手の悔しさは、テレビを通じてでも十分に伝わってきます。

ただ、その感動も、冒頭書きましたが、民放の放送姿勢はお寒い限り。
今回のオリンピック、民放の放送姿勢への批判が特に多いような感じがします。

先日のNHK視点・論点で、関西大学の黒田 勇教授が、最近のスポーツ中継について非常に良い解説をしていました。
詳しくはNHKのHPに出ていますが、ポイントは3つ。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/10835.html#more
1つ目は、「スポーツの個人化」
2つ目は、「バラエティ化」
3つ目は、「感動の押し売りもしくは捏造」
というものでした。

いずれも、民放の現状を的確に指摘していると感じました。
自分が、オリンピックをNHK以外で全く見ない理由がまさにそれです。

本当になんとかならないものなのでしょうか?
でも、黒田教授はおっしゃっていました。そうした流れに批判的なのは少数派で、多くは受け入れている現状があるので、今後も続くであろうと。

バラエティ化が進めば、スポーツ中継に嫌悪感を感じる人が多くなり、2番目の開催目的と書いた、政治の為というのは、薄れていくのでしょうね。

開催目的3つ目は、
オリンピックを見る、すべての人の為なのでしょう。

ナショナリズムの高揚とは別で、
日本人以外の活躍にも感動を覚えるのです。

なぜ感動するのか?それはきっと、やはり、選手の努力の結果にモチベーとされるのだと思います。

努力を重ね、成果を得る、成果につながらず悔しい思いをする。
これは、どの世界でも同じと体が知っているのです。

そうした様子を見るごとに、

「自分は何を頑張っているのか?頑張れるのか?」

と自問自答するのです。
オリンピックの感動を人生の糧にすることができる。
これが毎年でなく、4年に1回というところに価値があるのかもしれません。

自分のみならず多くの人が、オリンピックをきっかけに新しい挑戦や高い目標をもち、それに努力しているのではないでしょうか?

そうした人がいる限り、オリンピックは続くのでしょう。

今後も、この3番目、見るすべての人のためのオリンピックであってほしいと強く感じる次第です。

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