先日(1月26日)放送分の山下達郎サンデーソングブックで山下達郎氏が語った内容が一部で話題になっておりました。昨年亡くなられた名ドラマー青山純氏に関連し視聴者から寄せられた意見に対する考えなのですが、そこから芸事に対する達朗氏の哲学、世代間の軋轢の原因、上の世代の役割にまで発展した非常に良い内容だったので、書き起こしサイトから内容拝借して本ブログにも置いておきたいと思います。
芸事に限らず、いつの時代も「昔は良かった」という人がいますよね。これら全てはその人における「自分の歴史の投影、自分史の対象化」ということですね。納得です。自分が積み重ねた歴史こそが正義と思いたいですからね。他の価値観は受け入れがたい。本能的に守りに入っているのでしょう。
企業経営や政治の世界でも同じでしょう。経営や政治においては経験値による価値は一定程度認めますが、行き過ぎると良いことは無い。特に政治の世界はいわゆる「老害」が多すぎる。まぁ、今はその老害たる人物と同じ価値観の有権者が多く、そうした人の投票によって支えられているので戦犯は有権者ということになりますけどね。
「古い世代というのは新しい世代に対する寛容さというのを常に持っていなければならない」
「古い世代は、それらの若い新しい才能を見出して、抜擢し、助けて、陽の当たる場所に引っ張り出してあげなければいけません。」
これにつきます。
自分自身も気づけば36歳。ビジネスの世界ではまだまだ上の世代との接点が多いとはいえ、注意をして見渡せば若い世代も沢山いる状況になりました。自分史の投影をしていないか、無意識のうちに新しい世代に対し拒絶反応を示していないか常に留意したいと思う次第です。
今まですね、色々なお便り頂いているんですけども。何度か、演奏メンバーを替えて参りました。その度にですね、先週もちょっと申し上げましたが、スタッフにも反対されましたし、以前の方が良かったと保守的なお客さんも大勢いらっしゃいました。現在ではですね、押しも押されぬトップドラマーであります青山純という人ですら、彼を私が起用した当初はですね、スタッフや聴衆から、なぜそんな無名のミュージシャンを使うのかと反対されたり・・・攻撃されたりもしました。お客さんの中には、文句を言ってですね、それ以来来なくなるという方もいらっしゃいました。同じような事が何度か繰り返されて現在に至っております。今も、そうした情勢が、あまり変わりありません。ボブ・ディランの『ノー・ディレクション・ホーム』という映画を観るまでもなくですね、芸事に対してのお客さんの保守性というのは、大昔から存在しました。それは、まあ、芸事というのは、観る側にとっては自分の歴史の投影、自分史ですね、自分史の投影、自分史の対象化、そうした結果であります。歌舞伎とか伝統芸能、落語なんかの世界ですとですね、必ず先代は良かった、と。お前の芸なんて、先代に比べれば・・・というそういう昔はよかったというですね・・・まさに自分史の反映としての芸事の評価というのが、昔からございます。ですが、古い世代というのは新しい世代に対する寛容さというのを常に持っていなければならないと、僕は常に考えております。若い世代がですね、いつの時代も続々と生まれて来ます。我々古い世代は、それらの若い新しい才能を見出して、抜擢し、助けて、陽の当たる場所に引っ張り出してあげなければいけません。しかるに、多くの業界人、それから耳の肥えた聴衆とか、お客さんですらもですね、自分に馴染みのある、自分たちにとっての、すなわち自分史の反映としてのですね、一流、有名ミュージシャン、そうしたブランドを金科玉条と崇めまして・・・『昔はよかった』『俺達の時代はよかった』『それに引き換え、今の若いものは・・・』しばしば、そういう事を口にします。えぇ・・・私のライブに関しましても、ここ10年間青山君がいませんので「そんな青山純がいないライブなんて」という方がですね、少なからずおられるという・・私、よーく承知しております。別に、そういう方々にですね、再び来ていただこうとは思いませんがですね。ただひとつはっきりさせて、おかなければならないことは、今まで私を手伝ってもらったドラマー、上原裕、村上秀一、そして青山純、そして現在のパートナーであります小笠原拓海という、皆優れて卓越したドラマーであります。他にもスタジオやライブで縁のあった林立夫さん、高橋幸宏さん、知己ではないけれども最近ですと吉田佳史さんとか、玉田豊夢さんとか、素晴らしいドラマーが今も昔も沢山存在します!彼ら一人一の誰もが、それぞれにプレイヤーとしての個性や特殊性というのを有しておりまして。それらはもとよりですね、優劣の比較対象にはならないものであります。したがってファンのひいき、あるいはひいきの引き倒し・・・何度も申し上げております自分史の反映・・・そうした次元でのですね、誰が誰より優れてるとか、劣っているとかいう、そうした無意味な評論家ごっごはもう、もとより私はなんの興味も持っておりません。友達の死というのは、たいへんに悲しいし、残念な現実ですけれども。それでも我々は生きていかなければならないし、音楽を続けていかなければなりません。青山純の数多の名演というのはしっかり記録に残されております。残されたものは、去っていった人々のですね、思いを受け継ぎながら音楽を続けていかなければならないと思っています。
【出典】
未来の自分が振り返る
山下達郎さん サンデーソングブック 2014年01月26日『極私的、青山純追悼特集Part2』
http://yamashitatatsuro.blog78.fc2.com/blog-entry-353.html
芸事に限らず、いつの時代も「昔は良かった」という人がいますよね。これら全てはその人における「自分の歴史の投影、自分史の対象化」ということですね。納得です。自分が積み重ねた歴史こそが正義と思いたいですからね。他の価値観は受け入れがたい。本能的に守りに入っているのでしょう。
企業経営や政治の世界でも同じでしょう。経営や政治においては経験値による価値は一定程度認めますが、行き過ぎると良いことは無い。特に政治の世界はいわゆる「老害」が多すぎる。まぁ、今はその老害たる人物と同じ価値観の有権者が多く、そうした人の投票によって支えられているので戦犯は有権者ということになりますけどね。
「古い世代というのは新しい世代に対する寛容さというのを常に持っていなければならない」
「古い世代は、それらの若い新しい才能を見出して、抜擢し、助けて、陽の当たる場所に引っ張り出してあげなければいけません。」
これにつきます。
自分自身も気づけば36歳。ビジネスの世界ではまだまだ上の世代との接点が多いとはいえ、注意をして見渡せば若い世代も沢山いる状況になりました。自分史の投影をしていないか、無意識のうちに新しい世代に対し拒絶反応を示していないか常に留意したいと思う次第です。
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