「普通に面白い」「普通に美味しい」って言葉を使う人、少なく無いですよね。自身も時折使います。

その「普通に」という副詞に対して、「普通ってなんだよ!」と苛立つ方も少なくないようで、そうした論議が某匿名掲示板で定期的に巻き起こっています。

つい先日もそうした論議をまとめサイトにて目にしたので、「普通に面白い」「普通に美味しい」について考察してみたいと思います。

最新版:

「普通に面白い」←は? - アルファルファモザイク


過去版:

「普通に面白い」←大抵は面白くないゲームを擁護するために使われる 

「普通に面白い」ってなんなの? : デジタルニューススレッド


■論点整理
 
「普通に」って何だよ!議論は、「普通に」が「面白い」「美味しい」の他、「綺麗」「かわいい」といった、形容詞を修飾した際に、その尺度が不明確であることに起因しています。つまり使う側と使われる側の「普通に」への認識が一致していないため議論が生じるのですね。

ならば、「普通に面白い」などと使われる際の「普通に」の定義を明確にしたら良いわけですね。

■「普通」の定義確認

「普通に」は尺度を表す副詞ではないので、尺度を定めることはなかなか難しい問題です。例えば「面白い」であるならば、「すごく」や「まぁまぁ」といった程度を表す副詞も用いて表現します。それが尺度を表さない「普通に」が、若い世代を中心に使われるようになり、そのことに違和感を感じる人、世代が「普通に」って何だよ!論議を起こしているのでしょう。

「普通に」を考えるうえで、まずは「普通」の定義から確認します。
毎度おなじみWikipedia先生によると、下記のような説明がされています。
普通(ふつう)とは、広く通用する状態のこと。普通の『普』は、「あまねく」「広く」を意味する字である。
対義語として、「特別」「特殊」「特異」「奇異」。類義語として、「一般」「通常」「平常」「平凡」「平庸」「凡庸」「平(ひら、なみ、つね)」「常(なみ、つね)」「庸(なみ、つね)」「並(なみ)」など。
普通=一般、通常、平常といった意味合い。となると、「普通に面白い」は「一般的な面白さ」という意味になりますね。

Wikipedia先生の「普通」の用例を確認してみると、
普通 - Wikipedia

「出る杭は打たれる」「能有る鷹は爪を隠す」ということわざや、宗教史における異端への残害に象徴されるように、社会の中で特別な者や奇異な者は時に袋叩きに遭い、普通であることや平庸であることが求められる。しかし、単に平庸であることは、「ありきたり」「没個性」「長所を持たない」「存在感が小さい」といった厭わしい意味で捉えられることがある。

とあります。
この内容から「普通に面白い」は、面白いけれど「ありきたり」「没個性」という、消してポジティブな意味にはならないようですね。

さらに用例には、
一方で、1980年代前半のテレビ番組でも使用された「良い子、悪い子、普通の子」という表現や、近年の若者言葉における「普通に良い」というように、「一定基準を満たしている」「問題が無い」「短所を持たない」といった好ましい意味で使用されることもある[1]。例えば、言葉のジェネレーションギャップを歌い上げる『これってホメことば?』という歌にも「フツーにおいしい」という表現が取り上げられている。
と、例は「普通に美味しい」ですが、同じ「普通に」について言及しています。この用例からは、「普通に面白い」は「一定基準を満たしている面白さ」というポジティブな意味となるようです。

■「普通に面白い」≦「面白い」?


以上、Wikipedia先生の「普通」の説明から「普通に面白い」の尺度を定義してみると、「普通に面白い」は限りなく「面白い」と同義と考えて良いと思われます。

となると、

非常に(大変)面白い > 面白い ≧ 普通に面白い > 面白くない 

こんな感じでしょうか。

ただし、「>」となるか「=」となるか、これは使う人の「普通」に対する認識の違いによるところもありそうです。

「ありきたり」「没個性」という意味合いで「普通に面白い」と使う人は、「一般的に『面白い』といえるとは思うけれど、取り立てて特徴も無く、格別の評価をするには値しない」という主旨になり、「面白い」よりも若干低い評価、一方で「一定基準を満たしている」「問題ない」という意味合いで「普通に面白い」と使えば、これは「面白い」と同義となりそうです。

■「普通に面白い」と表現する心理

ここまで「普通に」ついて考察してきて何ではありますが、そもそも「面白い」に限らず、「美味しい」「きれい」「かわいい」全ての形容詞すべてそれらには普遍的な「面白さ」「美味しさ」「きれいさ」「かわいさ」が存在しないわけです。つまり「普通」は存在しない。

ある人が「面白い」という作品が、別のある人にとっては「面白くない」になります。「面白い」の尺度が人により異なるので、本来「普通」を定めるのは難しいはずです。

「面白いか」「面白くないか」はあくまで本人の主観。ゆえに評価を求められたら二者択一で回答したら良いのでしょうけれど、あえて「普通に」をつける。そこには、多くの人が「きっと面白いというであろうレベル」という期待、もしくは自身の評価判断の責任を回避するために使用しているではないかと思うのです。

「自分は面白いと思うけど、一般的に面白いか分からない。でも、多分一般的にも面白いはずだ。だから『普通に面白い』とあえて表現する」つまり、自分の「面白い」の評価に自信が無い人が使うといったことが考えられます。

一方で、その分野に大変詳しく、客観性を持った評価が出来る人の「普通に」は少し異なるようにも思います。

先に述べたように「面白い」は個人の主観です。しかし何かの作品が面白いか否かを問われたとき、それはある程度「一般的にみて面白いか面白く無いか」を問われていることが多くなります。

そうしたとき、自分自身はあまり面白いとは思わなかった(つまり好みではない)けれど、「一般的には面白い」と評価されるレベルだと思うという意図があるとき、

「普通に面白い」

と使うのではないでしょうか。 

ということで、「普通に」には、自らの評価基準に自信がない人の使う「普通に」と、一定の情報量、見識を持った人の「普通に」があることを理解し、「普通に」の表現に接した受け手側が、その意図を汲み取る必要がありそうです。

※ちなみにネットの論議を見ていると、事前の期待値が低かった作品に対し、予想に反して面白かった場合などにも「普通に面白い」を使う場合が多いようです。ここでの「普通」は、「一定基準を満たしている」の意味合いが強くありそうです。

と、ここまで徒然に考察してみましたが、「普通に」に対する認識は現状統一されていない状況ゆえ、今後も定期的に「普通って何だよ!」論議は起きるでしょう。

何事も「普通が一番むずかしい」のですよね。稲中の柴崎先生も言ってました。



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岩波書店
2010-10-21


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