研究ノート(大学教員の徒然)

なかたにじゅんいちの個人ブログです。

カテゴリ:国内MBA関連ネタ > 社会人大学院〜検討編

1年の休学を終え、大学復帰。

3年次より専攻が分かれ、予定通り都市計画専攻に。

思うと、2年までは、バイトばかりの生活で勉強らしいことはほとんどしていなかったが、この3年、4年はよく勉強した感じがする。

 この都市計画専攻というのは、つまり、文字の通り都市を計画する学問なのです。まちづくりに関係すること、道路や建物配置、環境など細かくは多岐にわたるのです。

 自分はその中でも、いわゆる分析系の研究室に入っていました。多変量解析とかを駆使して、都市にかかわる事象を科学的に分析・検証することを学びました。

 という分野で、卒業後、多くの人は、自治体やゼネコン、都市コンサルなどに就職しているのです。

 
 でも、自分は中小企業の経営コンサルティングという仕事を選びました。
それは何故か?を振り返りたいと思います。


 結局、いくら駅前を再開発しようが、新しい道路や施設を作ろうが、その地域にある、中小企業が頑張って成長しようとしなければ、町は活性化しないと強く感じたからです。

 行政による施策は重要です。でも、ハコ物をいくら準備しても、上手く行かなかった事例は枚挙にいとまがありません。


 たとえば、駅前再開発。

 ある中核都市の市役所の総合計画策定に実習でかかわったのですが、どうも行政側に経営感覚が乏しい。

 駅前の商店街は年々すたれ、人通りも閑散としている。そんな状況を、駅前をきれいに整備して、マンションを建てればよいものでもないのです。

 環境が変化する中、商店街で営むお店が変化に適応しながら経営していかないと強く感じたわけです。そうした支援を行政側はほとんどしていない。

 
 そんな経験を重ねるたびに、

「まちづくりのためには、中小企業の支援が欠かせない」

「中小企業支援を仕事にしたい」

 と思うようになりました。

「経営を学ばなければ」ということになります。

そのことは、将来、アジアで思いを強くもった夢にも繋がるとおもったのです。

 経営を学び、まちづくりに活かす。場合によっては、経営感覚に乏しい行政にもかかわる。

そんな将来像をもち、就職活動に突入、

選んだのは、経営が学べる会社。コンサルティング会社に対象を絞り込み、現在の会社に入社しました。


 ということで、大学時代の振り返り終了。
 
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大学時代までの振り返り の続きです。


お金もそこが見えてきたニュージーランド留学(遊学)1月中旬。
2月からはアジア放浪をすることを決めました。

10万円あれば1か月は余裕で過ごせると聞いたからです。

ちょうど、航空券がシンガポールでトランジットできたことから、
シンガポールから陸路タイ・バンコクを目指すことにしました。


シンガポール~マレーシア(ペナン経由)~バンコク
そして、流されるままに、勢いで陸路でカンボジア、
またバンコク~マレーシア(クアラルンプール)~シンガポールと、
1か月ちょっとで4カ国。


このアジア放浪1か月が、将来の方向性を決める経験になりました。





アジアには、学校も行けず、その日を生きるに苦労する子供たちが沢山いました。


特に、訪れた当時のカンボジアは、総選挙後2年がやっと経過したころ。
タイ側からの陸路国境がようやく開いたというころでした。

例えば、カンボジアのアンコールワット、

いまは観光化が進み、物乞いも排除されてしまったと聞きますが、
当時、あのアンコールワットの到る所に、子どもから大人まで物乞いにあふれていました。

子供が1ドルのTシャツを買ってくれと群がってきました。


例えば、プノンペン、

道端に、手足のない子供を抱えた親と見られるひとが、お金を要求してきました。
幼い女の子が、10ドルも満たない金額で売られていました。


そうした事実を前に、自分は全くの無力でした。

何もできない。

その場でお金を渡すことももちろんでますが、それが根本的な解決にならないのです。やり場のない怒りがこみあげました。


かたや、日本に半年振りに帰国し目の当たりにした「豊かすぎる日本」


この経験から、将来自分は、

東南アジアのこれから豊かにならなければならない国々に貢献したい。
と、その時、強く思うようになりました。


その手段について、考えた結果、
ビジネスを通じて、貢献しなければならないと考えるに至ったのです。


国により宗教や文化、歴史が異なりますが、
誰もが「豊かな生活がしたい」という願望は共通して持っている。

しかし、
経済的豊かさを享受するたくても、仕事がない、
もしくは、経営的な効率が極めて低い。


そんな状況に対して、

日本が有する資金や経験・ノウハウといった経営資源を活用して貢献する仕組みができないものかと考えるようになったのです。


今回も取り留めのない文章になってきました。
想いが整理されていない証拠ですね。


日本経済と東南アジア経済の橋渡しをしたい。

 例えば、大企業が進出して雇用を創出するのもひとつの手段だと思いますが、そうしたやり方ではなく、日本の中小企業に埋もれる、日本にはニーズがなくなったが、発展途上国ではまだまだ使えるような、機械設備を、その知的財産とともに提供したい。


事業をアジアの人たちに提供したい。

 例えば、小商圏でも成立しうるビジネスパッケージを構築して、それらを東南アジアの各地で展開したい。

一生懸命働いても、なかなか豊かになれない人たちの支援をしたい。



などといった、漠とした思いを持つようになったのがこのころでした。

いずれにせよ、大きな転機となる経験を多く得て、1年の大学休学生活を終えることになったのです。


大学後半から就職までを次回書きます。













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MBAを目指す理由を考えるうえで、これまでを振り返ってみたい気分になった。


まずは、大学卒業までを振り返ってみる。



大学時代、某大学で都市計画を学んだ。

当初より都市計画に興味があったわけではない。
子供ころは、建築家になりたかったから、建築学部を目指すつもりだった。

それが、入学を憧れた某大学には存在せず、最も近いのが都市計画専攻だった。

ただ、目指す過程において、建築家になりたいと思ったのは、

自分自身で描いた理想の家に住みたい。


という欲求が根底にあってのことと気がついた。


であるなら、建築家にならなくとも実現ができる。

建物のみでなく、もっと大きなこと、つまり自分が描いた街に住むという欲求にレベルがあがり、都市計画(=まちづくり、都市デザイン)を目指す理由が固まったことを思い出す。


 晴れて予定通りに入学できた後、勤勉な学生であったとはお世辞にも言えない1~2年次を過ごした。

 授業は最低限で、遊び、バイトに明け暮れていた。(でも、単位はそつなく揃える)

 
 そのこと自体に、全くの後悔はない。本当に有意義な時間だったと今でも思う。
が、しかし、2年次終了を目の前にして、漠然とした不安に襲われる。


 「来年の今頃、自分は就職活動などできない」


 何も学んでない。このままでは、自分は仕事など選べない。

 そんなとき、思い立ったのが休学→海外留学。

 中学生の時から、英語が大の苦手、でも、英語が必要なのは理解。
その当時から、

 「コツコツ勉強しても非効率、本当に必要を感じたら、海外に行って勉強してくる 」
 
 と、言っていたことを、今、実行しようと『思い立った』。

 その事が、どういう意義があって、その後その経験を、如何に活かすか?などといったこと考えなかった。

 まさに『思い立った』のだ。

 感覚的に、今、休学し、海外に行くことは、プラスあれど、マイナスになることは何もないという、変な確信があった。

 ※今、「社会人大学院を目指そう」と考えている心境と非常に似ている。

 
 親にそのことを告げる。当然ながら、当然反対されるも、最後は

 「反対しても、無理だろうから、好きにしなさい」

 と、了解してくれた。

 親の了解はとれても、計画的に資金準備を当然のことながらしていたわけではない。その年の春から約半年、ただただ留学するためだけにひたすらアルバイトの日々。

 でも、あの半年は楽しかった。

 
 夏ごろになり、そろそろ具体的に計画をと考えだした。
とりあえず、いわゆる留学支援会社の説明を聞きに新宿に行った。
 
 大学への短期留学など初めから想定していなかったが、語学留学するにも、なにやら非常にお金がかかることが判明。

 それまでに貯めたバイト代では到底賄いきれない。
しかし、学校を決めないと、留学ビザがおりない。ビザがなければ留学もできない。

 そんな壁にぶつかったのだが、だれがアドバイス、情報をくれたのか思い出せないのだが、

 「日本で語学学校を決めると高いよ」
 「現地にいって学校探して入学することもできるよ」

という情報を得て、希望の光を見た記憶がある。

 そこで、日本のエージェントを介さずすべて自分で手配しようと決めた。

 学校は現地で探すとして、ビザの手配。

 これは、消去法的に、ワーキングホリデービザしかないことに。
そして当時、夏のタイミングで、申請が可能だったのがニュージーランドしかなく、留学先はニュージーランドに決定した。

 
 そして、秋。ついに出発にこぎつけた。もちろん出発時点で、学校はおろか、到着したその日の宿さえ決まっていない状態で出発した。しかも、それが人生初の海外。

 今思うと、よくまぁ無謀なことをしたもんだと自分自身も思う。が、若さということなのか、当時は、不安はゼロではなかったのだろうが、「なんとかなる」としか思わなかった。


 シンガポール経由で無事、オークランド国際空港到着。初めての海外。西岸海洋性気候特有の強い日差し、乾燥した空気に青い空がとても印象的だった。


 空港バスに乗り、ダウンタウンに。切り抜いてきた日本の留学本のニュージーランドの語学学校紹介ページを見ながら、とりあえず歩き出す。

 そして、最初に見つけた学校に、とりあえず入ってみる。

 英語を真の意味で使うのも初めて。

 出てきてくれた人に、

 「今日、NZについた。学校に入りたい。はいれるか?」

 と聞いた。普通でなかったのだろう。相当変な日本人だったのだろう。
なにやら、驚いている様子。

 でも、対応してくれたのが、その学校の校長。

 学校の説明から、その日の宿の手配、さらには現ナマを大量に持ってきていた自分をみて、現地の銀行口座までその日に開設してくれた。

 で、翌日から無事、現地の語学学校、そしてホームスティがスタートした。

 昨日のことのように覚えている。 

 「周到な準備がなくとも、なんとかなるものだ」という教訓を得た。

 とはいえ、自分には、語学学校+ホームスティをその後半年続ける余裕資金のなく、1カ月で卒業。

 生活に慣れるには十分すぎる時間だった。卒業後も学校にはちょくちょく顔を出したし、先生やほかの学生との交流は、NZを離れるまで続いた。
 

 とはいえ、遊びに来たのではなく、あくまで英語を身につけたいがため。
卒業後、フラットを探し、学校探しをした。

 フラットは、NZ2人と日本人が住む、素敵な場所が見つかった。
学校は、現地の高校で開講されている、移民向けの英語学校。公共教育ってやつになるのかな。

 日本人はほとんどいない。イラン人や中国人など移民向け。先生は高校の先生方。
これが、格安で毎日午前午後と英語授業。とても良い学び先を見つけられた。

 
 と、何やら留学記になってしまったので、この辺で先に進むとして、


 NZへの留学は、安直なところなのだが、
初めて自分が日本に生まれた日本人であることを認識した。

外から見て初めてしる日本という国、日本人としてのアイデンティティ。

 クリスマス休暇、年末年始の約1か月を使って、

これも「思い立った」からなのだが、自転車旅行を敢行した。

 ただ、バスや列車を使った旅行はお金がなくて無理だっただけ。
自転車なら移動にお金がかからないと考えたまで。

 ウェリントンまでは列車で、そこから南島にわたり西海岸ルートから20日間くらいで1400キロほどの旅。最後は膝が壊れて自転車をこげなくなり、マウントクックで終了。

 自転車をこぐ毎日は、孤独だったが、自分自身を見つめなおす時間としては十分すぎる時間だった。

 内観というやつを自然と行ったのかもしれない。この経験を節目に、自分の価値観が大きく変わったようにおもう。

 旅行を終え、その後も学校に通っていたが、いよいよ資金も底が見えてきた。

 そんな話をしていたら、

「10万円もあれば、アジアなら1カ月いられるよ」

 と、また予定もしていない魅力的な話を聞かされ、NZ留学を終え、アジア放浪の旅に突入することにした。

 ようやくここまでたどり着いた。

 アジアの旅で、今の仕事に就いた理由、将来やりたいことの原点になる経験をしたのだが、あまりに長くなったので、これは日を改めてということにする。


 筑波大学大学院用の研究計画書の準備を進めないと。
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妻に「社会人大学院に行こうかと考えている」と話してみた。

結果は、撃沈。

反対はされなかったが、

「なぜに、大学院に行かねばならないのか?」

が自身すっきりしていないことを、見事に指摘されてしまった。

「昔から行きたいと思っていたから」

であり、いろいろと行くべき理由はあるのですが、
自分自身がまだすっきりしていない。

行くことにマイナスはないから、
とりあえず、行ってみる。後のことはそれから考える。

という感が強いのも正直なところ。

合格しなければ、いろいろと悩んでも仕方ないから、とりあえず合格に向けて受ける。

というところ。

準備を通じて、本当に行くべきなのか?を考えていくことにした。

週末、早速に、早稲田大学大学院、ウェールズ大学大学院の案内が届いた。

提出物やらを見ていると、それを完成させられれば、行くべき理由もはっきりしてきそうである。

とりあえず、卒業証明書と、成績証明を手配しておかないと。
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大学院に行きたくなった。
将来のためにMBAを取りたい。

小生、現在31歳。大学院に行きたいと考えたのは初めてではない。

23歳の頃の将来設計は、29歳でMBA留学だった。

ただ、準備開始予定であった27歳の時、

勤め先の会社の経営が苦しい状態になり、

「復活させるまでは頑張らねば」という使命感、

2年間の留学 < 現在の会社での2年間実務経験

という価値観から、一旦、留学という夢はお蔵入りにした。

今思うと、当時、ハードワークをしながら、留学に向けた準備をする自信が全くなかった。裏を返せば、そこまでして留学したいという強い想いがなくなっていたということにもなる。


それが今、なぜ大学院に行きたいと思うようになったかというと、

昨日のある、28歳のベンチャー企業に役員として籍を置く方との出会いだ。


その方は、都内私立大学卒業後、

 現在は上場しているネットベンチャーに就職、その後、やはり上場しているネット系企業に転職、その際に、働きながら2年間社会人大学院に通い修士号を取得し、今に至っているということ。

 その社会人大学院は、地方の工業系私立大学の東京キャンパス。

働きながらの勉強は大変苦しいものではあったが、
そこで得られた、知識、経験、そして何より人脈が今を支えているということ。

2年間で研究したマーケティングロジックをベースとした企業コンサルティングを手掛けている。


 その方の話に大変モチベートされた。今一度、自分もMBA取得を考えてみようと。


早速、昨夜、ネットで社会人大学院を下調べ。

働きながら通え、MBA取得ができる都内の大学院。

あまり多くはないのですね。
ちょうど、今、これからが来年度の受験申込時期ということがわかりました。


ちょうどというより、今このタイミングから動かないと間に合わない
というギリギリのタイミングでした。


何かの運命的なものを感じました。

受験には費用がかかりますが、合格しなくともリスクはないので、本気で受験に向け動いてみることにしました。

 ターゲットは以下の3校。

 筑波大学大学院経
 早稲田大学大学院ビジネススクール
 英国国立ウェールズ大学大学院日本校
 
 サブターゲットは、

 法政大学大学院
 明治大学大学院


まずは、募集要項など資料をDL、請求。週末読み込みスケジューリングから。 


しかし、その前に、なにより大切なことがありました、
仕事のことやお金のことは合格してから考えるとしても、

妻にそのことを話し、相談せねばなりません。何よりも家族の協力があってのこと。


 この1年ほど、将来が漠然としていたので、人生、将来を考える良い機会になりそうです。
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