「体罰」については柔道連盟の話も盛り上がっていますが、今回は「公教育の現場」で発生している「いじめ」「体罰」について、私見を文章にしておこうかと。※まだまとまりが無いので、今後追記修正する可能性大です。

「体罰」は簡単な話。「体罰厳禁」は既に定められているわけですから、それを徹底すれば良いだけ。「指導者は指導方法の手段としての暴力は一切禁止」、これを破れば刑法によって裁かれるとすれば良いのでしょう。尊敬する桑田真澄先生も

「絶対服従の仕返しされない構図で行われる一番ひきょうな行為」
「ダメなものはダメ。論理はいらない」


とおっしゃられています。
桑田氏「体罰はひきょう」 大阪市教委の研修会で

一部に体罰擁護容認派の方もいるようですが、ここは徹底して排除しないといけないと思います。いかなる事情があろうとも体罰は厳禁、こうしておかないといつまでも指導側のレベルが上がらないでしょうね。

まずはこれですが、「言葉」をどうするか?という問題は残りますけどね。体罰が仮になかったとしても「恫喝」だの「脅迫」だのと言い出し、それを告発する人、最悪の場合自殺してしまう人がいずれ必ず出てくるでしょう。明らかに生徒本人に問題があると思われても、訴えたもの勝ち、指導者側の立場が圧倒的に弱くなることが想定されます。

「セクハラ」「パワハラ」問題と似てきますね。同じシチュエーションで同じ言葉を発しても、人により受け取り方、受け取られ方が異なるなんてことになるわけで、取締が極めて難しい、ルールに出来ないですよね。一部に体罰を厳格に取り締まれば日本が弱くなるみたいなことを言う人達がいるようですが、日本のスポーツを弱体化するかどうかは現段階では誰も解りませんので、問題になった以上、一旦厳格な規制を「仕方がない」と割り切り受け入れるしか無いですね。

ということで、課題は残りますが「体罰」についてはこんな考えです。

次に「いじめ」について。これもそんなに難しい話ではなく、人格が形成される過程にある子供の時に、家庭、学校を通じて

「人が嫌がることをしてはいけない」
「他人を傷つけてはいけない」

という「当たり前」と思われる事を周知徹底、教育していけば良いと思うのですけどね、それが出来なくなってしまっているのが実状なのでしょうね。

「何故、人を傷つけてはいけないか?」という事を考えるって実はものすごく重要なことだと思いますが、最近の小中学校では教育されているのですかね?これは家庭で教育されてるべきことのような気がしますが、世の中を見ているとそれが出来る親も少なくなってきているのでしょうね。子供に対して感情的にキレているとしか思えないような言動を公共の場で躊躇なくとっている母親を時々観ますが、そんな親には無理でしょうね。

さておき、家庭の要素を考えだすと解決方法が途端に複雑になるので、今回は「学校内でのいじめ問題解決」に焦点をあて考えることにします。前提は「いじめ」問題を解決できないのは、学校の問題であるとします。問題があるといっても個々の学校の問題ではなく、おそらく教育委員会を始めとした学校制度の問題、制度が機能していない、もっと言えば時代にあわせ変化できないまま、腐ってしまっているからでしょう。

「昔はこんな事は問題にならなかった」などと言う人もいますが、これは単に過去を美化しているだけで、いつの時代にも「いじめ」は一定数発生してたはずです。そもそも「いじめ」というのは動物の世界でも存在していて、人間が集団で生活を営む以上、必ず「いじめ」は発生するもの。子供の世界だけではなく、大人の世界でもいつも「いじめ」は存在しているわけで、根絶することなど不可能でしょう。それを前提にルールで抑え秩序を守ることが出来るのが人間でもあるわけですよ。

今、その「いじめ」が大問題になるならば、ルールが合わなくなってきているということであり、ならば変えていきましょう、ということであると思うのです。

ただ「いじめ」問題の解決策については、多くの議論をされているようですが、この問題を考える上での最も大切なことは「定義」だと考えています。定義が決まり初めて、監視機能や解決方法の検討が可能になるはず。

これは、自分以外の人に対して日本人としてどのように接することが「当たり前」なのかを決める作業であり、日本人が日本人であるための価値観の再構築の作業ではないかとすら思うのです。この「いじめ」の定義を有識者だけで決めさせてはいけない気がします。全ての日本人が議論に参加して決める必要があると思うのです。

これをオールジャパンで検討を始め決めるとなると、途方も無い時間がかかり今起きている問題の解決が先送りされ痛ましい事件が繰り返されるので、自治体主導で自治体ごとに早急に決めて施行することが良いのでしょう。どこかの自治体で成功モデルが出来ればそれを横展開する。そういう柔軟性が教育には必要であり、その為には一部の教育利権団体が幅をきかせていてはいけないわけです。

と、まずは「定義」を決めることが何より大切だということです。

私見をもう少し書いておくと、現状に即して可能な方法を取ろうとすると大きな変化は望めないので、自分はまずは極端な方法をとってから実態にあわせ調整をしてけば良いという考え方を持っています。

例えば、いじめ問題の解決策は、学校教育を聖域化せずに、子供に対して現在の刑法を厳密に適用するというのも1つの手段だと思います。いじめ問題を学校に解決を委ねない。イジメを犯罪と明確に教育する。被害者は公権力の助けをいつでも求めることができる。(その為に定義が必要だと考えているわけでもあります)

まぁ、いきなり警察・検察というのもアレなので、第三者機関を設置して、どんな些細なイジメであっても告発できるようにしておきましょうか。その第三者機関が調査に入り裁定を下す。簡易な裁判制度も必要ですかね。その際の責任は全て子供の親が負うとしておけば、子供がイジメを働かないよう家庭での教育への意識も高まるでしょう。イジメるのもイジメられるのも全ては親の責任。子供の言動の責任は全て親が負う。学校の責任にしない。こう明確にしておけば良いと思うのです。

暴論ですかね。すぐに試してみても良いと思うのですがね。
ということで、「体罰」と「いじめ」に関する戯言は以上なのです。

ついでに戯言をもう一つ。「いじめ」問題関連が暴走し、いつか「ドラえもん」が発禁になるのではと心配しています。あのマンガは見方によっては「いじめ」マンガですからね。既に、そうした考察がネット上にはあふれているようですが、「いじめ」を助長する要素も少なくない一方で「ドラえもん」はいじめ問題解決のヒントも多くあります。まぁ、これを題材に学校の授業で「いじめ」を考えるくらいの余裕があれば良いのですが、ドラえもんに限らずマンガが「いじめ」を増長させるといって内容検閲が入る時代がくるかもしれませんね。そんな日本になったらそれこそ末期ですね。


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