MBAを目指す理由を考えるうえで、これまでを振り返ってみたい気分になった。
まずは、大学卒業までを振り返ってみる。
大学時代、某大学で都市計画を学んだ。
当初より都市計画に興味があったわけではない。
子供ころは、建築家になりたかったから、建築学部を目指すつもりだった。
それが、入学を憧れた某大学には存在せず、最も近いのが都市計画専攻だった。
ただ、目指す過程において、建築家になりたいと思ったのは、
自分自身で描いた理想の家に住みたい。
という欲求が根底にあってのことと気がついた。
であるなら、建築家にならなくとも実現ができる。
建物のみでなく、もっと大きなこと、つまり自分が描いた街に住むという欲求にレベルがあがり、都市計画(=まちづくり、都市デザイン)を目指す理由が固まったことを思い出す。
晴れて予定通りに入学できた後、勤勉な学生であったとはお世辞にも言えない1~2年次を過ごした。
授業は最低限で、遊び、バイトに明け暮れていた。(でも、単位はそつなく揃える)
そのこと自体に、全くの後悔はない。本当に有意義な時間だったと今でも思う。
が、しかし、2年次終了を目の前にして、漠然とした不安に襲われる。
「来年の今頃、自分は就職活動などできない」
何も学んでない。このままでは、自分は仕事など選べない。
そんなとき、思い立ったのが休学→海外留学。
中学生の時から、英語が大の苦手、でも、英語が必要なのは理解。
その当時から、
「コツコツ勉強しても非効率、本当に必要を感じたら、海外に行って勉強してくる 」
と、言っていたことを、今、実行しようと『思い立った』。
その事が、どういう意義があって、その後その経験を、如何に活かすか?などといったこと考えなかった。
まさに『思い立った』のだ。
感覚的に、今、休学し、海外に行くことは、プラスあれど、マイナスになることは何もないという、変な確信があった。
※今、「社会人大学院を目指そう」と考えている心境と非常に似ている。
親にそのことを告げる。当然ながら、当然反対されるも、最後は
「反対しても、無理だろうから、好きにしなさい」
と、了解してくれた。
親の了解はとれても、計画的に資金準備を当然のことながらしていたわけではない。その年の春から約半年、ただただ留学するためだけにひたすらアルバイトの日々。
でも、あの半年は楽しかった。
夏ごろになり、そろそろ具体的に計画をと考えだした。
とりあえず、いわゆる留学支援会社の説明を聞きに新宿に行った。
大学への短期留学など初めから想定していなかったが、語学留学するにも、なにやら非常にお金がかかることが判明。
それまでに貯めたバイト代では到底賄いきれない。
しかし、学校を決めないと、留学ビザがおりない。ビザがなければ留学もできない。
そんな壁にぶつかったのだが、だれがアドバイス、情報をくれたのか思い出せないのだが、
「日本で語学学校を決めると高いよ」
「現地にいって学校探して入学することもできるよ」
という情報を得て、希望の光を見た記憶がある。
そこで、日本のエージェントを介さずすべて自分で手配しようと決めた。
学校は現地で探すとして、ビザの手配。
これは、消去法的に、ワーキングホリデービザしかないことに。
そして当時、夏のタイミングで、申請が可能だったのがニュージーランドしかなく、留学先はニュージーランドに決定した。
そして、秋。ついに出発にこぎつけた。もちろん出発時点で、学校はおろか、到着したその日の宿さえ決まっていない状態で出発した。しかも、それが人生初の海外。
今思うと、よくまぁ無謀なことをしたもんだと自分自身も思う。が、若さということなのか、当時は、不安はゼロではなかったのだろうが、「なんとかなる」としか思わなかった。
シンガポール経由で無事、オークランド国際空港到着。初めての海外。西岸海洋性気候特有の強い日差し、乾燥した空気に青い空がとても印象的だった。
空港バスに乗り、ダウンタウンに。切り抜いてきた日本の留学本のニュージーランドの語学学校紹介ページを見ながら、とりあえず歩き出す。
そして、最初に見つけた学校に、とりあえず入ってみる。
英語を真の意味で使うのも初めて。
出てきてくれた人に、
「今日、NZについた。学校に入りたい。はいれるか?」
と聞いた。普通でなかったのだろう。相当変な日本人だったのだろう。
なにやら、驚いている様子。
でも、対応してくれたのが、その学校の校長。
学校の説明から、その日の宿の手配、さらには現ナマを大量に持ってきていた自分をみて、現地の銀行口座までその日に開設してくれた。
で、翌日から無事、現地の語学学校、そしてホームスティがスタートした。
昨日のことのように覚えている。
「周到な準備がなくとも、なんとかなるものだ」という教訓を得た。
とはいえ、自分には、語学学校+ホームスティをその後半年続ける余裕資金のなく、1カ月で卒業。
生活に慣れるには十分すぎる時間だった。卒業後も学校にはちょくちょく顔を出したし、先生やほかの学生との交流は、NZを離れるまで続いた。
とはいえ、遊びに来たのではなく、あくまで英語を身につけたいがため。
卒業後、フラットを探し、学校探しをした。
フラットは、NZ2人と日本人が住む、素敵な場所が見つかった。
学校は、現地の高校で開講されている、移民向けの英語学校。公共教育ってやつになるのかな。
日本人はほとんどいない。イラン人や中国人など移民向け。先生は高校の先生方。
これが、格安で毎日午前午後と英語授業。とても良い学び先を見つけられた。
と、何やら留学記になってしまったので、この辺で先に進むとして、
NZへの留学は、安直なところなのだが、
初めて自分が日本に生まれた日本人であることを認識した。
外から見て初めてしる日本という国、日本人としてのアイデンティティ。
クリスマス休暇、年末年始の約1か月を使って、
これも「思い立った」からなのだが、自転車旅行を敢行した。
ただ、バスや列車を使った旅行はお金がなくて無理だっただけ。
自転車なら移動にお金がかからないと考えたまで。
ウェリントンまでは列車で、そこから南島にわたり西海岸ルートから20日間くらいで1400キロほどの旅。最後は膝が壊れて自転車をこげなくなり、マウントクックで終了。
自転車をこぐ毎日は、孤独だったが、自分自身を見つめなおす時間としては十分すぎる時間だった。
内観というやつを自然と行ったのかもしれない。この経験を節目に、自分の価値観が大きく変わったようにおもう。
旅行を終え、その後も学校に通っていたが、いよいよ資金も底が見えてきた。
そんな話をしていたら、
「10万円もあれば、アジアなら1カ月いられるよ」
と、また予定もしていない魅力的な話を聞かされ、NZ留学を終え、アジア放浪の旅に突入することにした。
ようやくここまでたどり着いた。
アジアの旅で、今の仕事に就いた理由、将来やりたいことの原点になる経験をしたのだが、あまりに長くなったので、これは日を改めてということにする。
筑波大学大学院用の研究計画書の準備を進めないと。
まずは、大学卒業までを振り返ってみる。
大学時代、某大学で都市計画を学んだ。
当初より都市計画に興味があったわけではない。
子供ころは、建築家になりたかったから、建築学部を目指すつもりだった。
それが、入学を憧れた某大学には存在せず、最も近いのが都市計画専攻だった。
ただ、目指す過程において、建築家になりたいと思ったのは、
自分自身で描いた理想の家に住みたい。
という欲求が根底にあってのことと気がついた。
であるなら、建築家にならなくとも実現ができる。
建物のみでなく、もっと大きなこと、つまり自分が描いた街に住むという欲求にレベルがあがり、都市計画(=まちづくり、都市デザイン)を目指す理由が固まったことを思い出す。
晴れて予定通りに入学できた後、勤勉な学生であったとはお世辞にも言えない1~2年次を過ごした。
授業は最低限で、遊び、バイトに明け暮れていた。(でも、単位はそつなく揃える)
そのこと自体に、全くの後悔はない。本当に有意義な時間だったと今でも思う。
が、しかし、2年次終了を目の前にして、漠然とした不安に襲われる。
「来年の今頃、自分は就職活動などできない」
何も学んでない。このままでは、自分は仕事など選べない。
そんなとき、思い立ったのが休学→海外留学。
中学生の時から、英語が大の苦手、でも、英語が必要なのは理解。
その当時から、
「コツコツ勉強しても非効率、本当に必要を感じたら、海外に行って勉強してくる 」
と、言っていたことを、今、実行しようと『思い立った』。
その事が、どういう意義があって、その後その経験を、如何に活かすか?などといったこと考えなかった。
まさに『思い立った』のだ。
感覚的に、今、休学し、海外に行くことは、プラスあれど、マイナスになることは何もないという、変な確信があった。
※今、「社会人大学院を目指そう」と考えている心境と非常に似ている。
親にそのことを告げる。当然ながら、当然反対されるも、最後は
「反対しても、無理だろうから、好きにしなさい」
と、了解してくれた。
親の了解はとれても、計画的に資金準備を当然のことながらしていたわけではない。その年の春から約半年、ただただ留学するためだけにひたすらアルバイトの日々。
でも、あの半年は楽しかった。
夏ごろになり、そろそろ具体的に計画をと考えだした。
とりあえず、いわゆる留学支援会社の説明を聞きに新宿に行った。
大学への短期留学など初めから想定していなかったが、語学留学するにも、なにやら非常にお金がかかることが判明。
それまでに貯めたバイト代では到底賄いきれない。
しかし、学校を決めないと、留学ビザがおりない。ビザがなければ留学もできない。
そんな壁にぶつかったのだが、だれがアドバイス、情報をくれたのか思い出せないのだが、
「日本で語学学校を決めると高いよ」
「現地にいって学校探して入学することもできるよ」
という情報を得て、希望の光を見た記憶がある。
そこで、日本のエージェントを介さずすべて自分で手配しようと決めた。
学校は現地で探すとして、ビザの手配。
これは、消去法的に、ワーキングホリデービザしかないことに。
そして当時、夏のタイミングで、申請が可能だったのがニュージーランドしかなく、留学先はニュージーランドに決定した。
そして、秋。ついに出発にこぎつけた。もちろん出発時点で、学校はおろか、到着したその日の宿さえ決まっていない状態で出発した。しかも、それが人生初の海外。
今思うと、よくまぁ無謀なことをしたもんだと自分自身も思う。が、若さということなのか、当時は、不安はゼロではなかったのだろうが、「なんとかなる」としか思わなかった。
シンガポール経由で無事、オークランド国際空港到着。初めての海外。西岸海洋性気候特有の強い日差し、乾燥した空気に青い空がとても印象的だった。
空港バスに乗り、ダウンタウンに。切り抜いてきた日本の留学本のニュージーランドの語学学校紹介ページを見ながら、とりあえず歩き出す。
そして、最初に見つけた学校に、とりあえず入ってみる。
英語を真の意味で使うのも初めて。
出てきてくれた人に、
「今日、NZについた。学校に入りたい。はいれるか?」
と聞いた。普通でなかったのだろう。相当変な日本人だったのだろう。
なにやら、驚いている様子。
でも、対応してくれたのが、その学校の校長。
学校の説明から、その日の宿の手配、さらには現ナマを大量に持ってきていた自分をみて、現地の銀行口座までその日に開設してくれた。
で、翌日から無事、現地の語学学校、そしてホームスティがスタートした。
昨日のことのように覚えている。
「周到な準備がなくとも、なんとかなるものだ」という教訓を得た。
とはいえ、自分には、語学学校+ホームスティをその後半年続ける余裕資金のなく、1カ月で卒業。
生活に慣れるには十分すぎる時間だった。卒業後も学校にはちょくちょく顔を出したし、先生やほかの学生との交流は、NZを離れるまで続いた。
とはいえ、遊びに来たのではなく、あくまで英語を身につけたいがため。
卒業後、フラットを探し、学校探しをした。
フラットは、NZ2人と日本人が住む、素敵な場所が見つかった。
学校は、現地の高校で開講されている、移民向けの英語学校。公共教育ってやつになるのかな。
日本人はほとんどいない。イラン人や中国人など移民向け。先生は高校の先生方。
これが、格安で毎日午前午後と英語授業。とても良い学び先を見つけられた。
と、何やら留学記になってしまったので、この辺で先に進むとして、
NZへの留学は、安直なところなのだが、
初めて自分が日本に生まれた日本人であることを認識した。
外から見て初めてしる日本という国、日本人としてのアイデンティティ。
クリスマス休暇、年末年始の約1か月を使って、
これも「思い立った」からなのだが、自転車旅行を敢行した。
ただ、バスや列車を使った旅行はお金がなくて無理だっただけ。
自転車なら移動にお金がかからないと考えたまで。
ウェリントンまでは列車で、そこから南島にわたり西海岸ルートから20日間くらいで1400キロほどの旅。最後は膝が壊れて自転車をこげなくなり、マウントクックで終了。
自転車をこぐ毎日は、孤独だったが、自分自身を見つめなおす時間としては十分すぎる時間だった。
内観というやつを自然と行ったのかもしれない。この経験を節目に、自分の価値観が大きく変わったようにおもう。
旅行を終え、その後も学校に通っていたが、いよいよ資金も底が見えてきた。
そんな話をしていたら、
「10万円もあれば、アジアなら1カ月いられるよ」
と、また予定もしていない魅力的な話を聞かされ、NZ留学を終え、アジア放浪の旅に突入することにした。
ようやくここまでたどり着いた。
アジアの旅で、今の仕事に就いた理由、将来やりたいことの原点になる経験をしたのだが、あまりに長くなったので、これは日を改めてということにする。
筑波大学大学院用の研究計画書の準備を進めないと。
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