大学時代までの振り返り の続きです。
お金もそこが見えてきたニュージーランド留学(遊学)1月中旬。
2月からはアジア放浪をすることを決めました。
10万円あれば1か月は余裕で過ごせると聞いたからです。
ちょうど、航空券がシンガポールでトランジットできたことから、
シンガポールから陸路タイ・バンコクを目指すことにしました。
シンガポール~マレーシア(ペナン経由)~バンコク
そして、流されるままに、勢いで陸路でカンボジア、
またバンコク~マレーシア(クアラルンプール)~シンガポールと、
1か月ちょっとで4カ国。
このアジア放浪1か月が、将来の方向性を決める経験になりました。
アジアには、学校も行けず、その日を生きるに苦労する子供たちが沢山いました。
特に、訪れた当時のカンボジアは、総選挙後2年がやっと経過したころ。
タイ側からの陸路国境がようやく開いたというころでした。
例えば、カンボジアのアンコールワット、
いまは観光化が進み、物乞いも排除されてしまったと聞きますが、
当時、あのアンコールワットの到る所に、子どもから大人まで物乞いにあふれていました。
子供が1ドルのTシャツを買ってくれと群がってきました。
例えば、プノンペン、
道端に、手足のない子供を抱えた親と見られるひとが、お金を要求してきました。
幼い女の子が、10ドルも満たない金額で売られていました。
そうした事実を前に、自分は全くの無力でした。
何もできない。
その場でお金を渡すことももちろんでますが、それが根本的な解決にならないのです。やり場のない怒りがこみあげました。
かたや、日本に半年振りに帰国し目の当たりにした「豊かすぎる日本」
この経験から、将来自分は、
東南アジアのこれから豊かにならなければならない国々に貢献したい。
と、その時、強く思うようになりました。
その手段について、考えた結果、
ビジネスを通じて、貢献しなければならないと考えるに至ったのです。
国により宗教や文化、歴史が異なりますが、
誰もが「豊かな生活がしたい」という願望は共通して持っている。
しかし、
経済的豊かさを享受するたくても、仕事がない、
もしくは、経営的な効率が極めて低い。
そんな状況に対して、
日本が有する資金や経験・ノウハウといった経営資源を活用して貢献する仕組みができないものかと考えるようになったのです。
今回も取り留めのない文章になってきました。
想いが整理されていない証拠ですね。
日本経済と東南アジア経済の橋渡しをしたい。
例えば、大企業が進出して雇用を創出するのもひとつの手段だと思いますが、そうしたやり方ではなく、日本の中小企業に埋もれる、日本にはニーズがなくなったが、発展途上国ではまだまだ使えるような、機械設備を、その知的財産とともに提供したい。
事業をアジアの人たちに提供したい。
例えば、小商圏でも成立しうるビジネスパッケージを構築して、それらを東南アジアの各地で展開したい。
一生懸命働いても、なかなか豊かになれない人たちの支援をしたい。
などといった、漠とした思いを持つようになったのがこのころでした。
いずれにせよ、大きな転機となる経験を多く得て、1年の大学休学生活を終えることになったのです。
大学後半から就職までを次回書きます。
お金もそこが見えてきたニュージーランド留学(遊学)1月中旬。
2月からはアジア放浪をすることを決めました。
10万円あれば1か月は余裕で過ごせると聞いたからです。
ちょうど、航空券がシンガポールでトランジットできたことから、
シンガポールから陸路タイ・バンコクを目指すことにしました。
シンガポール~マレーシア(ペナン経由)~バンコク
そして、流されるままに、勢いで陸路でカンボジア、
またバンコク~マレーシア(クアラルンプール)~シンガポールと、
1か月ちょっとで4カ国。
このアジア放浪1か月が、将来の方向性を決める経験になりました。
アジアには、学校も行けず、その日を生きるに苦労する子供たちが沢山いました。
特に、訪れた当時のカンボジアは、総選挙後2年がやっと経過したころ。
タイ側からの陸路国境がようやく開いたというころでした。
例えば、カンボジアのアンコールワット、
いまは観光化が進み、物乞いも排除されてしまったと聞きますが、
当時、あのアンコールワットの到る所に、子どもから大人まで物乞いにあふれていました。
子供が1ドルのTシャツを買ってくれと群がってきました。
例えば、プノンペン、
道端に、手足のない子供を抱えた親と見られるひとが、お金を要求してきました。
幼い女の子が、10ドルも満たない金額で売られていました。
そうした事実を前に、自分は全くの無力でした。
何もできない。
その場でお金を渡すことももちろんでますが、それが根本的な解決にならないのです。やり場のない怒りがこみあげました。
かたや、日本に半年振りに帰国し目の当たりにした「豊かすぎる日本」
この経験から、将来自分は、
東南アジアのこれから豊かにならなければならない国々に貢献したい。
と、その時、強く思うようになりました。
その手段について、考えた結果、
ビジネスを通じて、貢献しなければならないと考えるに至ったのです。
国により宗教や文化、歴史が異なりますが、
誰もが「豊かな生活がしたい」という願望は共通して持っている。
しかし、
経済的豊かさを享受するたくても、仕事がない、
もしくは、経営的な効率が極めて低い。
そんな状況に対して、
日本が有する資金や経験・ノウハウといった経営資源を活用して貢献する仕組みができないものかと考えるようになったのです。
今回も取り留めのない文章になってきました。
想いが整理されていない証拠ですね。
日本経済と東南アジア経済の橋渡しをしたい。
例えば、大企業が進出して雇用を創出するのもひとつの手段だと思いますが、そうしたやり方ではなく、日本の中小企業に埋もれる、日本にはニーズがなくなったが、発展途上国ではまだまだ使えるような、機械設備を、その知的財産とともに提供したい。
事業をアジアの人たちに提供したい。
例えば、小商圏でも成立しうるビジネスパッケージを構築して、それらを東南アジアの各地で展開したい。
一生懸命働いても、なかなか豊かになれない人たちの支援をしたい。
などといった、漠とした思いを持つようになったのがこのころでした。
いずれにせよ、大きな転機となる経験を多く得て、1年の大学休学生活を終えることになったのです。
大学後半から就職までを次回書きます。
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